“ネコアルク丑三”

信じられないほどに身体は軽い。

新宿の街は蒸し暑く、周りを見渡しても、まるで水族館の水槽を眺めているようだった。私がいるのは、水槽の中か外なのかはわからない。

家の中は息がつまる。

収束感と、閉塞感。未知への希望は既知の退屈に塗りつぶされている。ぼんやりと暗い未来に向けて少しずつ歩くのがどうしても嫌だった。

これが反抗だとしても、抗わずに生きていくものの気が知れない。

私の世界には常に圧がかかっている。

周りの目、声、息、感触がどうにも気に入らない。無視はできない煩わしさに心は常に騒ついた。1人になれない世界は、結局自分が1人であることを強く認識させる。

家出をするには理由はいらない。

誰かと言い合いになる必要もなく、心配もされる必要もない。家の中と外に違いがあるとすれば、布団が無料であるかどうか。布団が無料であることの価値を知るのは、布団を失ってからである。

ゲームセンターの匂い。

筐体の先に繋がるネット、その前の画面に他の人間がいることを誰が確かめただろうか。孤独な光と音の世界、そこに生まれるコミュニティもどこか世間と隔絶されたマイノリティ。気に入らない奴がいたらぶっ飛ばしてやる、あいつのサマーソルトキックで。

引き続き少し奥へ。

好きなゲームでは路地裏で人が吸血鬼に殺されている場面に出くわす。現実ではそんなことは無く、と言い切りたいが果たしてどうだろうか。昨今ならそれも有りかねない。吸血鬼よりも怖い狂人が其処彼処に歩いているだろう。ポケットの中を改めないことで、生まれた平和があるらしい。

ライブハウス。

地下に行く背徳感、それ自体に酔うことが出来なければ目指すことはないだろう。だが、声を出す必要もなく、感想を言う必要もない。人間は非日常に憧れる。小さな世界で見る憧れた人は、思ったよりも小さかったが、全てが終わって外に出たら、いつもより空気が美味しい気がした。

突然不安になる。

人間の常識を散々語ってきたが、今目の前を横切った猫と私の違いは何だろうか。例えば今夜の間だけ、あの猫と私が入れ替わり、1人と1匹がそれぞれ街を悠々と歩いたとして、誰が何を言うだろうか。

私にとっての夜。

いつから昼が自由でなくなったのかはよくわからないが、生まれた時からそうだった気もする。

新宿の街は変わらず、水族館の水槽じみている。水槽の中が不幸だと誰が嘆いたとでも言わんばかりに、結露を指で拭ってみる。

この散文も猫と同じ。あること自体な意味はなく、あること全てが自由ということなのだにゃあ。