いつの間にやら、あったことすらわからないままに通り過ぎる。中にいる人にとっては有り難みも無く、その場で名前を付けられることもない。
後から人はきっと、それを青春と呼ぶ。
昔よく聴いた歌謡曲のギターソロを改めて聴くと、何やら妙に作り込まれている。恐らくそんなものだろう。
センチメンタルは紛れも無い毒となり、つまらないとごちる日常をさらにつまらない日常に変えてしまう。
そのために、誰しもが未来を見ようと1週間先、1ヶ月先、1年先、避けられないそれらを楽しもうとあらゆるメディアは大衆向けに煽動するが、本当の希望は自身の中で見つける他ないことを、全ての人はわかっている。
例に漏れずその内の1人である彼女も、日常を積み重ねて続けていた。久し振りに届いた懐かしい連絡に対しても鈍い感動しか覚えなかったが、断るのも野暮だろうと同窓会に参加することにした。
久しぶりに会う沢山の顔は、彼女にとっても懐かしく、あまり人と会わない生活をしているせいか、柄にもなくはしゃいでいる自分がいることに驚く程である。
“タイムカプセルを開ける”
この会の大きな趣旨であることはわかっていたが、感慨はなかった。
なぜなら、自分がタイムカプセルの中に入れた未来の自分への手紙にはどうせ「◼️◼️◼️になりたい」といったようなことが書いてあるだろうからだ。
昔から父親の◼️◼️を見ながら育った自分が見ていた夢くらいは覚えている。
結局今も諦めきれずに、仕事をしながら◼️◼️を続け、◼️◼️◼️崩れとも言える生活を続けている自分には、当時の真っ直ぐな夢は眩しすぎるし、恥ずかしさを覚えてしまう。
昔の夢を直視するということは、今の自分に向き合うことなのだろう。
乗り気にならないまま、タイムカプセルが開けられ始めた。
一人一人が歓声を上げ、笑ったり、涙ぐんだりしながら開けているのを眺めていると、ついに自分の名前が呼ばれた。
気恥ずかしいので足早に近づき、少女だった自分が書いた作文を奪うように受け取る。
読むのは乗り気ではないが、昔の自分が見た夢を見たら案外笑えるかもしれない。
四つ折りのそれを読んだ自分は、予想通り確かに笑ってしまった。笑いを堪えきれず、少し目が潤んでしまう。
昔の自分のことなんて何もわかっていなかった。今の自分から逆算して、昔の夢を捏造してしまうなんて、なんて思い上がりだろうか。
自分の次に名前を呼ばれた子は、今日欠席らしい。あまり仲良くはなかったが、もしかしたらその彼女も昔の自分のことなんて忘れているかもしれないのだから、いつかタイムカプセルを開けるような機会が訪れたらいいのにな、と思った。
夢は夢、季節が巡れば昔は昔。
美化することは簡単だが、今は今、見えているものはきっと今が1番美しい。
『私の夢は、綺麗なお嫁さんになることです。
庭の付いてる大きな家に住んで、…』